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目次 1.唯物論と唯心論 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 4.心とは一体何なのか 5.生命の実相と正しき心の探究 6.地球人類、数億年の歴史を語る 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 (1987年6月29日の霊示) 1.唯物論と唯心論 谷口雅春です。引き続き、第2章に入っていきたいと思います。本章においては、谷口哲学の本質とも言える、「唯神実相哲学」についての話をしていきたいと思います。 これは、生前の私の説に対して、まあ、さらにこちらの世界に還ってからの研究を加えて発表をしたいものだと考えております。 さて、この世の中の成り立ちを説明する仕方としては、古くから二つの説明の仕方があると言われておりました。すなわち、唯心論と唯物論、この対立であります。唯心論というのは、心ですね。心しかないという考え方。唯物論というのは、ものしかないという考え方。この両者が対立的に、論争されてきたわけであります。 まず、唯物論の考え方としては、やはり世界というものは、現にあるものがあるのであって、現にないものをあるように言うのはおかしい、と。すなわち、目の前にあるもの、机であり、椅子であり、家であり、大地であり、草花であり、動物であり、人間の肉体でありますが、このような現に目で見、耳で聞き、手に触れられるものこそ、実在であって、これ以外のものがあるわけではない、と。こういうふうに考えるわけであります。非常に、現実主義的な考え方とも申せましょう。 しかし、唯心論の側から、これに対して、反駁(はんばく)が加えられるわけであります。宇宙があると言うのは、宇宙を、宇宙として認識しているお前の心があるからではないのか。心があってこそ初めて、地球も、宇宙も、岩も、山も、川も、海も、他の人間も、あるのではないのか。お前という者に心なくして、そのような存在が一体あり得るであろうか。唯心論者は、このように言うわけであります。 唯物論者は、これに対して、さらにまた反駁し、その心、心というお前を乗せておる地球は、お前が心を語っておる間にも、クルクルと自転をしておるのだ。すなわち、心で見るだとか、見ないだとか、そう言っておる間にも、お前が立っている大地は、動いておるのだ。これこそが実在でなくして、一体何か実在であるのか、と。まあ、こういうふうに言うわけであります。 この辺に関して、さらに突っ込んだ説明をしたうえで、私の唯神、つまり、神のみがあるという唯神実相哲学へと話を進めていきたいと思うのです。 2.マルクスの唯物論とダーウィンの進化説は逆流現象 そこでまず、唯物論について、今少し検討をしてみたいと思います。唯物論というのは、考え方としては、もちろん大昔からあるわけでありますが、マルクス以来、つまり、ここ百年ばかり、非常に唯物論が一世を風靡(ふうび)してきたかのごとくであります。そして、このマルクスの唯物論と、科学者のダーウィンによる人類の進化の仮説、この二つがたまたま相まって、この百年ほどは、唯物論が時代の主流を占めているかのごとき景観を呈していると思われます。 その時代の流れのなかにある人間は、ともすれば、そのことを当然だと考えがちでありますが、しかしながら、これは必ずしも当然の流れではないのであります。 たとえて言えば、川というものがあります。川の水は上から下へと流れていくのでありますが、そのところどころにおいて、流れが逆転し、逆流しておるところがある。ここがひとつの淵とか、淀(よどみ)とか言われるところであって、そういう淀の部分に流れが入ってくると逆流して、まるで水の流れが川下から川上へと流れているようにグルグルと廻っているように見えるのです。 しかし、これは、本来の川の流れではないのです。同じように、人類の思想の流れというものを見てきても、大部分は上から下へと流れてきたものではあっても、その一時期、こうした川の淵のなかに入って、水が逆流しているかのごとき現象が出ることがあります。 人間を一枚の木の葉だとするならば、この木の葉が逆流したときに、彼らは、どちらが正しい流れかがわからなくなることもあるわけです。しかし、大きな目で見れば、川は上から下へと流れている。それが、わかる。これは真実であります。 私たち宗教家の教えというものは、結局、こういうことであります。いつの時代でも、川の流れというものは、上から下へと流れていくのだ。つまり、唯一の神から人間へと、そして、地上へと降りてきておるものだ、と。いつも、このように教えているものであります。 したがって、ダーウィンの進化説だの、マルクスの唯物論などが、一世を風靡(ふうび)しておるように思っても、これは、いわゆる逆流現象にしかすぎないのではないかということを、よくよく心に留めていく必要があると思うのです。 3.人間はアメーバーから進化してきたのではない 日本では、現時点において、共産主義というのがそれほど人気がないがために、マルクスの思想というものが過大評価されることは少ないと言えましょう。しかし、ダーウィンのほうの進化仮説に関しては、文部省までもがテコ入れをして、全国的に普及をしておるようであります。 ただ、真実を語るとするならば、やはり進化論のなかにも、重大な誤りがあると言わざるを得ません。その重大なる誤りとは、一体何か。結局のところ、霊的なるものの存在を認めてはいないということです。これが、重大なる誤りだと言えます。進化論が扱っておるものは、結局、肉体としての生物がどう変わってきたのかを追っているにすぎません。猿が人間になったのかどうか。あるいは、魚が両棲類(りょうせいるい)となり、両棲類が爬虫類(はちゅうるい)となり、爬虫類から哺乳類が出て、哺乳類が進化して、現在の人間になったかどうか。と言うことは、結局のところ、肉体の歴史を追っておるだけなのであります。 もちろん、こちらの世界から見た霊的な歴史観から見れば、地上の動物というものも、何百万年、あるいは、それ以上の歳月のなかにおいて、さまざまにその形が変わってきたことは事実であります。しかし、形が変わってきたそのつどつどに、神が粘土をこねてそういう動物を創ったわけではないことも、また事実なのです。 鳥なら鳥というものが現われたときに、その鳥がさまざまに変化していったという、そういう変化の道筋というものが確かにあったとは言えましょう。また、人間の人体というものも、長い歴史のなかにおいて、さまざまに変化してきたことも、事実です。すなわち、それらは、やはり、この地球という環境に適応するような形に変わってきたのです。 それは、外見だけにとらわれなくても、つまり、うわべだけの人間が、二本手があり、頭がひとつで、足が二本、目が二つ、鼻がひとつ、口がひとつ、耳が二つ、というような、こういう大きな外見だけにとらわれなくても、皮膚の色ひとつを見ても、そうです。熱帯地域に住んでおる人たちは、やはり黒い色をしております。熱帯に住んでおって、白い色をしたという人はいない。 また、純粋に北方の地方に住んでおって、黒人のような色をしている人はいない。もちろん、アフリカから移住して来た場合も考えられるから、黒い色をしておる人がいないわけではない。ただ、熱帯地方の人は黒く、北方の人は白い、これは、事実であります。こうしてみると、結局、人体にも、環境による影響が現われているわけです。 洞窟のなかに住む生物とか、深海のなかに潜(ひそ)む生物は、太陽の光を受けないがために、真っ白な体をしておるようによく言われております。同じように、光の薄いところには、そうした白い肌の人たちが数多く出て、目の青い、透きとおるような目をした人が数多くおるのです。一方、直射日光を受けるところでは、あたかもサンマが火に焼かれるがごとく、皮膚の黒い人たちが数多く出ておることも事実です。 また、食べものによっても、変化がありましょう。草食民族と肉食民族とが、体型においてもかなり違っておることは、あきらかです。肉食を中心とした人種は、やはり体が大きい。逆に、草食、つまり、稲作であるとか、麦作であるとか、こうしたことを拠所(よりどころ)として生活をしてきた人たちは、全般に、やはり小柄である。こうしたことは、否めない事実であろうと私は思います。 ただ、このように、環境的変化は変化として、人体に影響を与えてはおるわけですが、そうした肉体以前に、人間という観念が宿った霊があったということ、これは、否定できないのです。ですから、人間だけの知性と理性を備えたものが、偶然にできてきたという考えがありますが、これは、まったく世界を惑(まど)わす考え方であると言わざるを得ません。 皆さん方は、本当にあの進化論を信ずることができるのでしょうか。アメーバーが何億年かしたら、本当に人類のようになってくるのでしょうか。そうしたことを信じられるでしょうか。もしアメーバーが人類になって、こうした知的遺産を残すようになるとするならば、そのアメーバーが人類になるがごとき方向に導いているエネルギーに対する敬礼脱帽というものをせざるを得なくなるのではないでしょうか。私は、そう思います。 人間というのは、魂において、やはり神から分かれてきたものなのです。神の属性を、その本来の属性として持っておるものなのです。こうした霊的側面から見るならば、進化論、あるいは、唯物論というのは、大変な間違いであると言えると思います。 4.心とは一体何なのか 日本の昔の歴史書、たとえば、古事記とか、日本書紀をひもといてみると、日本列島というのは、伊邪那岐(いざなぎ)、伊邪那美(いざなみ)の命(みこと)によって国づくりがされたということが記されております。雲の上から鉾(ほこ)でもってかき回して、その雫(しずく)が落ちたところが、すなわち、日本列島のさまざまな島になったというような神話が残されております。まあ、神話は神話でありますが、少なくとも、こうした日本列島のような島国をつくるに際しても、それをつくるという計画が、すでに神の国においてなされておったということは、事実であるわけであります。 このように、この地上的なものごと、こうしたものは、単に偶然にできるのではなくて、大きな計画のもとに、やはりなされておるのです。 こうしてみると、唯物論、唯心論の両方を紹介いたしましたが、どちらもまだ不十分なところがあると言わざるを得ません。 なぜならば、唯心論と言われているものも、唯心の心、これが単なる心だととらえているかぎりにおいては、まだ探究の不足が、そこにあると思われるからです。つまり、その心とは、一体何なのかということがわからない。 この心というのを、単なる知覚能力、認識能力だというふうに受け取るとするならば、これは、あきらかに間違っていると言えましょう。自分が見ることができるならば地球はあるけれども、見えなければ地球がないとか。目が見える人にとっては赤い色が実在するが、目が見えない人にとっては赤い色はないとか。こういう議論は、不毛であります。現に赤は赤としてあるわけです。それは、目が見える見えないには関係しないのであります。 また、心のなかで地球というものを認識しようがしまいが、地球というものが、一日二十四時間で自転をし、一年三百六十五日で太陽の周りを公転している、これもまた、事実であります。こうしてみると、心というのを単なる認識能力、知覚能力と考えた場合には、それのみでもって、この世界観、宇宙観を説明をするのは無理であります。 そこで、この心というものが本当の意味で何なのかということを、さらに私は検討してみたいと思うのです。 まあ、「正しき心の研究」ということを標榜(ひょうぼう)しておるようであるけれども、そもそも、この正しき心というのは一体何なのか。これを、私の実相哲学と比較して考えてみなければならぬと思うのです。 私は、あるところでは、「本来心なし」と言い切ったこともあります。これは、禅で言う「喝(かつ)」でもあるわけですけれども、宗教家の陥りやすい陥穽(かんせい)、つまり、井戸として、心、心と言って、心にとらわれすぎるところがあるんですね。 そして、いつの間にやら、それに振り回されておる。一日中思ったこと、たとえば、何かを思うと、「ああ、こうぃう思いをする自分はダメだ」とか、どうだとか。こうして、一生懸命自分自身を裁くもうひとりの自分というものを見い出したりしておるようです。心、心と言っておるうちに、自分というのが非常に惨めに、情けない存在へとなっていって、その結果、人生に希望も勇気もなくなるというような、こういうことが多々あるわけであります。 すなわち、心という言葉に、あまりにも多義的な意味が与えられすぎておるわけであります。私は、「心なし」と言ったこともありますが、「心なし」と言った理由は、そうした迷うような心は、本来ないのだということを言っておるのです。ああ思った、こう思った、失敗した、間違った、ああした、こうした、という胸のなかを去来している想(おも)いというのは、本来のものではない。心、心と思っておるけれども、こういうのは、たとえば、木炭車が走るときに出るような、スモッグ、いねば、煙であって、本来のものではないのです。 本来の人間の本質には、どのようなことがあっても動じない、迷わない、そうした金剛石のようなものがあるのです。そして、この部分は、各人、すべてに共通しているのです。そして、こうした金剛石の部分がなければ、何故(なにゆえ)に、すべての人に対して、真理だとか、正法だとかいうような、こうした普遍の原理を押しつけることができるでしょうか。 心というのが、各人の自由になるものであって、それぞれ勝手にいろんなことを思ってよいのであるならば、どうしてこれこそが真理だと言って、日本人や外国人、あるいは、いろんな地域に住んでおる者に対して、それを押しつけることができるのでしょうか。そういう安売りは、できないはずであります。 そうした押し売りができるということは、結局のところ、それぞれが得手勝手に、心、心と思って振り回しておる心の中心に、共通の一本の黄金の糸があるということを示しておるのです。 5.生命の実相と正しき心の探究 そして、この中心にある黄金の糸、心を操(あやつ)っておるところのさらに中心部分こそが、私の言う「生命の実相」の部分なわけであります。 すなわち、人類の心のなかに共通に織り込まれている黄金の糸、これが生命の実相であるということです。 私の考えによれば、私の言うこの生命の実相というのは、実は、現在、「〇〇〇〇〇」というところで言っておる正しき心の探究ということと異ならないと思うのであります。正しき心の探究とは、結局、仏性の探究であろうし、仏性というのは、結局、人間神の子の思想、すなわち、生命の実相であろうと思うのですね。 こうして見ると、人間の思い、あるいは、行動というものも、この仏性がどのように現われて展開していくという過程であり、また、この地球にある万生万物、動物や、植物や、鉱物、これらすべても、実は、仏性が自己展開していく姿にしか他ならないということができると思うのであります。 では、仏性とは一体何なのでしょうか。仏性とは、すなわち、神の意志であります。あるいは、神の光の本質であります。結局のところ、そういうことであります。唯一の神から分かれてきた人間が、そのさまざまな場面、場面、段階、段階に応じて、仏性、神性の発現のために努力精進しておるということなのです。 努力しておる人間というものが、神から分かれてきたものであるならば、この神から分かれてきた人間も、やはり神の心によって創られ、この地上において生活をしておるのです。そして、神の子が、結局、神の創られたもののなかで生きておるのですから、そこは本来、この世もあの世もない実相世界しかないとみるのが筋なわけです。 この世というものを有限の世界、限られた世界と思い、この世の法則のみをすべての法則だと思うところに、人間の悩みや苦しみの根本の原因、すなわち、無明(むみょう)というのがあるのです。 そして、この無明というのは、摧破(さいは)せねばならん。この迷いというものを、打ち破らねばならん。私が、聖経『甘露(かんろ)の法雨(ほうう)』のなかで語っておるように、そういう無明というものは迷いであるのだから、これは一蹴せねばならぬのです。 本来は、神の子の実相しか現われておらんのであり、本当にその神の子の本質に目覚めた目で見れば、この地上世界というものも、山川草木国土悉皆成仏(さんせんそうもくどしつかいじょうぶつ)、すべてこれ仏性ありということです。 釈迦が悟ったとき、山も、川も、草も、木も、動物も、植物も、すべてそこに仏性、すなわち、神の子としての本質が光っておるということを悟ったと言われております。そして、そういう悟りを開いたときに、苦の世界と、苦しみの世界と思われていたこの地上が、実は輝ける黄金の世界であり、金剛石の世界であるということに気がつくわけです。 なぜならば、この地上で存在しているものすべてが何故(なにゆえ)存在しているのかを知ったときに、その本質を知ったときに、すべてが仏の生命の現われであると悟ることができるからです。 こうした見地から見ると、たとえば、昔から言う、本来悪というのがあるのか、ないのか。こうした問題は、けりがつくわけであります。 本来悪というものはないのです。悪と見えしものは、これはやはり、川の流れのなかに生じてくるうたかたの泡(あぶく)のごときものであり、また、逆巻く波のようなものであって、波は波としてあるように思うけれども、風が治(おさ)まってみれば、実は波というものはないのです。すなわち、悪というものは、本当はないのです。 神理というものは、あるいは、人間の仏性、神性というものは、春の小川のように、サラサラと流れているものなのです。とはいえ、サラサラと流れているなかに、春一番の風が吹いて、表面に小波(さざなみ)が立つように見えることがあります。 この小波のことを悪と言ったり、迷いと言ったりしておるのですが、その小波が本来あるものでないことの理由は、やがて風が止めば、そうした小波が治まり、元のサラサラと流れる春の小川となっていくことからもわかりましょう。 6.地球人類、数億年の歴史を語る まあ、そうしたことで、大まかな説明をしてまいりましたが、せっかく谷口雅春が如来界に還って、さまざまな見聞をしておるわけでありますから、この谷口哲学、唯神実相哲学というものを、実相の世界から見た考えというものの再検討というものを、もう一度してみねばならんのではないか。と、このように考えるわけであります。 そうしてみると、ここに、私はひとつの問題点があったことを認めざるを得ないと思うのであります。すなわち、それは、私が神という言葉で定義をしておったものの本質についてであります。 古事記や日本書紀に現われてくるような神というもの、たとえば、天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのが、根本神のひとつとして記されておりますが、私は、この天之御中主之神というものを、いわば、宇宙の中心神、根本神であるというふうに考えておりました。 ちょうど大日如来が、仏教のほうで言うと、大宇宙の神か仏であるように言われているのと同じく、天之御中主之神こそが、宇宙の根本神のように考えておりました。 しかし、こちらの世界に還って来て、どうやら事情が違うらしいということに気がついたわけであります。つまり、私は、生前、人類の歴史というものは、たかだか数千年、あるいは、数万年程度のものだと思っておったのでありますが、こちらに還って来て、人類の歴史というのは、そんな浅い歴史ではないということを知りました。 現在、人類の祖先である直立猿人であるとか、北京原人であるとか、こうしたものは、五十万年前、百万年前の存在だと学問的には言われておるそうだけれども、実際の人類の歴史というものは、もっともっとはるかに古いものだということを、私は知ったのです。まさに、気が遠くなるような古い昔から、人類というのは、実はこの地球で魂修行をしておったのだということを、私は知りました。 恐竜の時代と言われる、そういう何億年か昔の時代があったことを知っていると思いますが、その恐竜の時代に、すでに人類はひとつの文化文明を持っておったことがあきらかにわかったわけであります。すなわち、人類の起源は、地球においては、すでに数億年の歴史を持っておるということを、私はこちらの世界に来て、知ったのです。 これは、生前、私がとうてい悟り得ていないことでありました。恐竜の時代においても、やはり人類は住んでおって、恐竜たちから身を守るための文化というものを生み出しておったのです。そういう文化や技術というものを持っておったのです。 ただ、いかんせん、一億年、二億年、三億年前の話であるからして、ほとんどその痕跡が残っておらんのです。その痕跡が残っておらん理由は、さまざまな地殻変動が起きてきたからです。 現在エベレスト山のようになっておる一万メートルもあるような、ああいう高い山であっても、かつては、海底の底にあったのです。そして今、海底の底にあるものが、かつて山であったり、あるいは、大陸であったのです。過去何億年の間に、地球の表面というものは浮いたり沈んだりして、幾度かの地殻変動を繰り返してきていることを、私は知りました。 それはちょうど、古事記、日本書紀で言うところの国づくりのように、島ができたり、国引きをされたりするようなことが、現実にあったわけです。ある島が浮上して大陸となり、地続きとなったり、文明を誇っておった大陸が沈没して、海の底に横たわったり、こうしたことが数かぎりなくあった。そういうわけで、かつての文明の面影というのがほとんどなくなってしまった。また、ノアの箱舟のような現象も数多くあって、そのつど、人類はひとつの洗礼を受けて、新たな文明を再スタートするという、こういう歴史があったわけです。 7.古事記とコーランの成立が同時代である事実 三億年ぐらいにもなりましょうか、こうした人類の歩みというものを振り返ったときに、たかだかここ三千年ぐらいの歴史というものは、ほんの昨日、今日であります。ほんの昨日、今日にあたるわけです。人類の歴史というものを、人間の七十年という人生に比較してみるならば、私たちが人類の歴史として現在知っておるような三千年ぐらいの歴史というのは、本当に昨日のことです。昨日の日記帳を開けば書いてあるようなことであるわけですね。 そうすると、昨日の日記帳に書いてある天之御中主とか、あるいは、国常立之神(くにとこたちのかみ)であるとか、こういう神様というのは、本当に宇宙の根本神であるかと言えば、実はそうではなかったということであります。 これは、「生長の家」の信徒にとってはひとつの驚きであり、私の考えの大いなる改説であるととられるかもしれないけれども、古事記、日本書紀がつくられたのは、今から千数百年前です。ですから、ほんの千数百年前の人が宇宙開闢(かいびゃく)の神について知っていたと考えるのは、これはやはり、事実認定に誤りがあるのです。 今から二千年後、たとえば、「生長の家」総裁であった谷口雅春も、まあ、根本神か、日本の最初の神様のように言われるようになるでしょう。すなわち、人類の歴史というのは、そう古い記憶を持ってはおらんのです。 そういうものであって、奈良時代に宇宙の根本神と言われておったような神様というものは、結局、その千年か、二千年前に地上に生きて、人びとを指導しておった偉大な人であったということなのです。 三億年というひとつの大きな時間の流れを見れば、ここ二、三千年の間に現われたる神格というものは、やはり宇宙の根本神ではないということです。私は、これを知りました。ですから、古事記、日本書紀そのものを鵜呑(うの)みにしてはならんのです。もっと古い時代から人類の歴史はあったのです。 古事記や日本書紀がつくられた時代というのは、結局のところ、アラビアにおいてマホメットがコーランをつくった時代とそう変わらんわけであります。マホメットは、コーランのなかで、天地創造の神アラーのことを述べておるようですが、真理の書というのは、天地創造について述べねばならぬ義務があるために、そういうことを言っておるのだけれども、天地創造というのは、はるかなる昔に行なわれたものであって、いかんせん、人智を超えておるものなのです。 したがって、真実を語れば、天之御中主之神といい、天照大御神といい、実は、今から三千年近い昔において、日本の国に肉体を持たれた光の天使であったということなのです。その証拠は、あの古事記という書物のなかに、神々の姿があまりにも人間的に描かれているところに現われていると言えましょう。岩戸隠れをしたり、踊り狂ったりする神様方。あるいは、酒を飲み、嫉妬をする。あるいは、喧嘩をし、戦(いくさ)をする神様の存在を見たときに、これは実相の神ではないということです。 すなわち、かつてそういうような優れた方たちが地上に降りたことがあって、その伝承が伝わっておって、古事記や日本書紀にまとめられたというわけであります。 8.天之御中主之神と天照大御神の実像 天之御中主之神(あめのみなかぬしのかみ)というのは、いわば日本の中心神、つまり、指導神であって、やはり光の大指導霊のひとりであるわけです。そして、日本神道系では、最高の力を持っておる方のひとりであったということです。 まあ、神武天皇という者がいたというふうに歴史のなかで言われておりますが、実際は、そういう偉大な初代の天皇の姿というのは、今から三千年近い、二千数百年前の昔に天孫降臨した、つまり、実相世界から地上へと肉を持って降り立った、そうした偉大な大指導霊の活躍を語っておるわけであります。 天之御中主之命というのは、現在の天皇家の、いわば肉体先祖にあたると言える方であり、今から二千八百年近い昔に、肉体を持たれた方なのです。 天照大御神(あまてらすおおみかみ)と言われる方も、天之御中主之命、この天之御中主之神が九州の地に肉体を持たれて何代か下がったときに出られた方です。天照大御神、この方も、結局、今の九州の地において、天皇家の前身である九州朝廷のなかの女神、つまり、女性の皇后であったのです。皇后という言葉は正しくないかもしれないけれども、まあ、女性の統治者であったわけです。 そして、この天照大御神と言われている方は、谷口雅春が過去世、前世は伊邪那岐大神(いざなぎおおかみ)、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)であるということについては前巻において述べておりますが、その私が伊邪那岐として地上に肉体を持ったときに、実は、私の長女として生まれた者なのです。 当時、主として南九州のほうに、天之御中主から始まる偉大な王朝というのがあったのです。そして、伊邪那岐命と言われている私は、やや南ではない、今の大分県のあたりの豪族として生まれて、そこで力を持っておったのでありますが、この南九州王朝に出た指導者のなかに、霊的能力を持っておる者がおって、その者に対して、天之御中主之神から神示が下り、「今の大分県のほうに住んでおる伊邪那岐命という者の娘に、天照という者がおる。この者を次期の女王とせよ」という神示が下った。そのため、私の娘であった者が、その朝廷の女性の統治者となったのです。こうした事実があったということです。 まあ、こういうことはにわかには信じがたいかもしれないけれども、人類の歴史というものを、たかだか三千年と考えるからそうなるわけであって、何億年もの歴史があったということを前提にするならば、こういうことも、つい昨日、一昨日のことなのです。 現在の人類が生きておるように、千年前、二千年前、三千年前の人類も、やはり生活をしておって、そのときのみに神々が降臨しておったわけではないということです。 結局、根本神と言われておるのは、それは人間が言っておるのであって、本当の根本神の姿を、人間がつかむことはできないということです。 9.「生長の家」の大神の主神は天之御中主、副神は住吉大神 したがって、天之御中主之神という方も、私のいる世界における最高に霊格の高い神霊のひとりでありますが、いまだ人格を持っておる霊であって、かつて肉体を持たれた方であるのです。 そして、「生長の家」の大神と言われていた方が、実は、この天之御中主之神その人であったということを、私は知りました。この「生長の家」の大神、すなわち、私を悟らしめ、私に、「本来肉体なし」「病なし」の教えを説かした、光明思想を説かしたその張本人が、天之御中主之神であったのです。 住吉大神(すみよしのおおかみ)こそが、「生長の家」の大神だということもずいぶん言いましたが、住吉大神というのは、実は、協力した神のひとりであって、中心神としては、天之御中主之神がおったのです。 そして、その他の「生長の家」のさまざまな活動を助けるがために、住吉大神というのが活動をしておったのです。すなわち、「生長の家」の大神と言われた方も、ひとりではなくて、数名の方がたが活躍しておったということです。 これに関して、私は、生前、明確な悟りを得ることはできていませんでした。ですから、そのことについて、本霊示集において、修正をしておきたいと思うのであります。本章は、以上で、私の唯神実相哲学の話とさせていただきたいと思います。
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出典 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)は、日本神話に登場する神。 天地創造に関わった五柱の別天津神(ことあまつかみ)の一柱。 古事記の天之御中主神 古事記では、天地開闢の際に高天原に最初に出現した神であるとしている。その後高御産巣日神、神産巣日神が現れ、すぐに姿を隠したとしている。この三柱の神を造化三神といい、性別のない「独神」(ひとりがみ)という。 日本書紀の天御中主尊 日本書紀では本文には記述はなく、第一段で6つ書かれている一書のうちの第四の一書にのみ登場する。そこでは、まず国常立尊、次に国狭槌尊が表れたと書き、その次に「また、高天原においでになる神の名を天御中主尊(あめのみなかぬしのみこと)という」と書かれている。この記述からは、前に書かれた二神とどちらが先に現れたのかはわからない。なお、他の一書では、最初に現れた神は国常立尊(本文、第一、第四、第五)、可美葦牙彦舅尊(第二、第三)、天常立尊(第六)としている。 諸説 神名は、天(高天原)の中央に座する主宰神という意味である。宇宙の根源の神であり、宇宙そのものであるともされる。 古事記、日本書紀とも、その後の事績は全く書かれておらず、「中空神」とも言われる。記紀神話が形成される上で創造された観念的な神と考えられ、それには中国の天帝の思想が影響したものと考えられる[要出典]。 平田篤胤は禁書であったキリスト教関係の書籍を読み、その万物の創造神という観念の影響を強く受けた。そして『霊之御柱』において、この世界の姿が確定する天孫降臨以前の万物の創造を天御中主神・高皇産霊神・神皇産霊神の造化三神によるものとした。この三神は復古神道においては窮極神とされ、なかでも天御中主神は最高位に位置づけられている。 神社 神話に殆ど記述がなく、生活に直接かかわる神ではないため、長らく信仰の対象とはされてこなかった。中世以降になって、寺院や陰陽道などで祭られるようになった。現在、この神を祭る神社には、妙見社系と水天宮系の二系統がある。 妙見社系の端緒は、道教における天の中央の至高神(天皇大帝)信仰にある。北極星・北斗七星信仰、さらに仏教の妙見信仰(妙見菩薩・妙見さん)と習合され、平田篤胤が北斗七星の神とする教学を確立した。さらに、明治初期に大教院の祭神とされ、いくつかの神社が祭神を天之御中主神に改めた。千葉氏ゆかりの千葉神社、九戸氏ゆかりの九戸神社、埼玉県の秩父神社などは妙見信仰のつながりで天之御中主神を祀る妙見社である。妙見社は千葉県では宗教法人登録をしているものだけでも50社以上もある。全国の小祠は数知れない。 水天宮は、元は仏教の神・水天を祀るものであるが、神仏分離の際、水天の元となったヴァルナの神格が始源神であることから、記紀神話における始源神・天之御中主神に置き換えられたものである。
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『ふることふみ-知泉的古事記-』 第一話の登場人物 ひえだのあれ《稗田阿礼》 おおのやすまろ《太安万侶》 げんめいてんのう《元明天皇》 あめのみなかのぬし《天之御中主神》 たかみむすび《高御産巣日神》 かみむすび《神産巣日神》 ぞうかさんしん《造化三神》 うましあしはびひこぢ《宇摩志阿斯訶備比古遅神》 あめのとこたち《天之常立神》 ことあまつかみ《別天神》 くにのとこたち《国之常立神》 とよくもの《豊雲野神》 うひぢに《宇比地邇神》 いもすひぢに《妹須比智邇》 あめのみなかのぬし《天之御中主神》 あ い う え お か き く け こ さ し す せ そ た ち つ て と な に ぬ ね の は ひ ふ へ ほ ま み む め も や ゆ よ ら り る れ ろ わ -
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アメノミナカヌシは、日本神話に登場する神。天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ、あまのみなかぬしのかみ)。 参考Webリンク 天之御中主神 - Wikipedia 作品 パズル ドラゴンズ アメノミナカヌシ 静謐の天央神・アメノミナカヌシ 創始の天央神・アメノミナカヌシ 霊命の天央神・アメノミナカヌシ タグ 日本神話
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みなかぬし ガハラ神国の君主。神王とも呼ばれている。人間が必ず持っている天之御中主神の分け御霊を少し多く持っている人間。 名前の由来は日本神話に登場する天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)であると思われる。新世界の創造神イルはこの神と同一の存在と思われる。 名前としてはWeb版『第2章1話 神話に住まう人々』から既に出ているのだが、ガハラ神国自体がまともに物語で語られずじまいのため、未だにどのような人物かは不明だった。 しかし、クルセイリース大聖王国編にて、お告げを告げられ、そのことを伝えるべく使者を派遣すべく動きを見せる。 関連項目 人物|ガハラ神国|フェン王国 ※既存のコメントに返信する場合、返信したいコメントの左側にチェックを入れて下さい。 過去のコメント 名前 ここを編集 〔最終更新日:2022年05月04日〕
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アメノミナカヌシ(天之御中主神・天御中主尊・天御中主命) 日本神話で最初に登場した神。 天(高天原)の中央に座する主宰神。宇宙の根源の神。 ゾウカサンシン(造化三神)の一人。 コトアマツガミ(別天津神)の五柱の一人。 関連: タカミムスビ (高御産巣日神) カミムスビ (神産巣日神) ウマシアシカビヒコヂ (宇摩志阿斯訶備比古遅神) アメノトコタチ (天之常立神) ミョウケンボサツ (妙見菩薩、同一視) 祭神とする神社: 東京大神宮(東京都千代田区) 水天宮(東京都中央区) 秋川神明社(東京都あきる野市) 高明神社(東京都あきる野市) 雨武主神社(東京都あきる野市) 大神山神社(東京都小笠原村) 石座神社(愛知県新城氏) 太田神社(福島県原町) 神明社(秋田県潟上市) 江文神社(京都府京都市) 幸神社(京都府京都市) 木島坐天照御魂神社(京都府京都市)
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BLUE REFLECTION 幻に舞う少女の剣 初作機種:PS4, PSV 後発機種:PC 作曲者:浅野隼人 開発元:ガスト 発売元:コーエーテクモゲームス 発売年:2017年3月30日 概要 OP EDはさよならポニーテールを起用。 劇中BGMはサウンドディレクターの浅野隼人氏が担当している。 浅野氏はサントラのライナーノートで「悪い意味ではなく、多分僕にとって一番胸の張れる、かつ、それこそ卒業アルバムとも言えるような一番恥ずかしいCD」と語っているが、本作の発売と同時に浅野氏はガストを退社した為、文字通りの卒業アルバムとなった。 ちなみに各曲で使用されているピアノ・ヴァイオリン・チェロを、それぞれ主要キャラの3人に見立てて曲を構成しているとのこと。 特にボス戦の曲では、初期はほぼピアノだけなのに対し、戦闘フェイズが進行し曲が変化するごとにヴァイオリンとチェロの音が増えていくようになっている。 サントラはプレミアムBOXにのみ付属し中古市場でも異常な高騰をしていたが、次回作の発売に合わせ遂に2021年10月20日に単品として復刻発売されることとなった。 収録曲 曲名 作・編曲者 補足 順位 Disc1 リフレクト(Game ver.) 作曲:ふっくん編曲:マウマウ テーマソング歌:さよならポニーテール BLUE REFLECTION 浅野隼人 タイトル(メインテーマ) 第11回574位第12回271位第13回692位第14回839位第15回320位第16回213位2017年112位第2回オープニング112位第2回ガスト26位 I (sun) 学校:晴れ アルエラ 汎用テーマ1 第13回614位 選択性フィル夕 コモン:恐怖 Albireo Lake チュートリアル戦闘 第2回ガスト126位 hope to die リザルト 不自由な心 私という運命について 振武 -隼- イェソド戦前半 2017年221位 振武 -屠龍- イェソド戦後半 第11回251位2017年243位 振武 -飛燕- イェソド殲滅戦 第11回482位 すぐそばの彼方 凪の速さで クオリア 混合コモン OVERDOSE 通常戦闘曲 第11回29位第12回17位第13回6位第14回20位第15回8位第16回15位2017年2位第2回ガスト6位通常戦闘曲43位 積み重ねてきたこと TIGAR -Otto- コクマー戦前半 TIGAR -Kurt- コクマー戦後半 TIGAR -Michael- コクマー殲滅戦 第11回362位第12回399位第13回552位2017年78位第2回ガスト79位 快楽説パラドクス コモン:喜び しかくとさんかくとまる 反射的蒼衣換装曲 リフレクター変身:日菜子 コンタク卜マテリアル リフレクター変身:夕月 violent PANDA リフレクター変身:来夢 リフレクト 作曲:ふっくん編曲:マウマウ 歌:さよならポニーテール Disc2 こすいちのかくすらなきくどっとえぐぜ 浅野隼人 通常戦闘曲(後半) 第11回96位第12回160位第13回34位第14回162位第15回109位第16回223位2017年15位第2回ガスト33位通常戦闘曲201位 We Can't Rewind リザルト(後半) I (Cloud) 学校:曇り ほかならぬあなたへ binGe -C18H23NO3- ティファレト戦前半 第11回372位第12回421位2017年232位 binGe -C10H15NO- ティファレト戦後半 2017年215位 binGe -C17H21NO- ティファレト殲滅戦 第11回423位第12回563位第15回750位2017年80位 陽が沈むまで話し込んだあの日と同じ空を見ながら 草にすわる もしも、わたしがあなただったら 「You're not a heroine, it's me.」 第8章:ボス前イベント 第11回863位 DNF FW15C -I- ネツァク戦前半 DNF FW15C -II- ネツァク戦後半 第12回545位第16回955位 DNF FW15C -ZERO- ネツァク殲滅戦 第11回879位第12回531位2017年59位 I (rain) 学校:雨 心理的リアクタンス コモン:怒り hallucination And hope 強敵戦 第11回198位第12回519位第13回403位第14回943位第15回481位第16回480位2017年69位 理有る者の考察 小胞膜トランスポータ コモン:悲しみ わたしの中の壊れていない部分 Sayonara -神産巣日- ラスボス戦前半 第11回780位2017年184位 Sayonara -高御産巣日- ラスボス戦中盤 第2回ラストバトル254位 Sayonara -天之御中主- ラスボス戦後半 第11回219位第12回579位第14回800位第15回574位2017年87位第2回ラストバトル138位第2回ガスト78位 Disc3 さよなら、笑って 作曲:ふっくん編曲:マウマウ エンディングテーマソング歌:さよならポニーテール BLUE REFLECTION (END Edit) 浅野隼人 スタッフロール リフレクト(Off Vocal) 作曲:ふっくん編曲:マウマウ さよなら、笑って(Off Vocal) 振武(ALL PHASE MIX) 浅野隼人 TIGAR(ALL PHASE MIX) binGe(ALL PHASE MIX) 第2回ガスト111位 DNF FW15C(ALL PHASE MIX) Sayonara(ALL PHASE MIX) コンセプトイメージム一ビー使用楽曲 BLUE REFLECTION (クリスマス特別配布楽曲) 未使用楽曲(コンセプトイメージムービーボツ曲-DEMO-) 未使用楽曲(Albireo Lakeアレンジ-DEMO-) 未使用楽曲(コンセプト楽曲第1案-DEMO-) 未使用楽曲(コンセプト楽曲第2案-DEMO-) BLUE REFLECTION -Another- 第11章:学校 2017年188位 BLUE REFLECTION Best Selection書き下ろし曲 brain experiment 浅野隼人 type.Aにのみ収録 re Alive type.Aにのみ収録 paranoia type.Bにのみ収録 cloud9 type.Bにのみ収録 第2回ガスト101位 サウンドトラック 限定盤に付属 BLUE REFLECTION 幻に舞う少女の剣 オフィシャルサウンドトラック 発売記念ムービー
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アメノミナカヌシ(2)(天之御中主神) 日本神話『宮下文書』に記される神。 火高見(ホタカミ)の第1代。
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アメノミナカノシノカミミヒカリ(天之御中主神身光天皇) 日本神話『竹内文書』における上古王朝第4代天皇。
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属性 ランク 名称 種族 コスト 初期 MAX 成長 スキル数 詳細 攻撃 防御 攻撃 防御 無 N 小桜姫 植物 3 161 ? 136 ? 晩 3 アイドル, 武器持ち, サクラリオン 無 N ジェムスネーク 爬虫 3 115 ? 119 ? 晩 2 蛇, ナーガ 無 N スネークキング 爬虫 3 127 ? 117 ? 晩 2 蛇, 王冠 無 N 大竹 一樹 海 1 10 ? 10 ? 早 8 四足歩行, 農作物, 一角, 石兵, あやしい光, 古代兵器, 軟体, さまぁ~ず 無 N ドワーフの斧兵C 亜人 2 136 892 119 790 早 2 武器持ち, 二角 無 N ハンターオーク 亜人 2 134 1032 121 930 早 3 武器持ち, 紫色, 二角 無 N 大魔道師マレファ 亜人 3 161 ? 126 ? 晩 5 アイドル, 一角, 武器持ち, 浮遊, 紫色 無 N ヴィール ダーク 3 108 ? 126 ? 晩 3 箱物, 紫色, サマーゴースト 無 N ジョーミミック 物質 2 94 ? 129 ? 普 2 箱物, 紫色 無 N シザードール 傀儡 2 132 ? 102 ? 普 2 羽, 魔人形 無 N ジエンドオブダバ ダバ 3 188 ? 305 ? 普 2 複頭, 紫色 無 R 小桜姫 植物 6 911 3513 775 2989 晩 3 アイドル, 武器持ち, サクラリオン 無 R ジェムスネーク 爬虫 6 637 2669 661 2781 晩 2 蛇, ナーガ 無 R スネークキング 爬虫 6 675 ? 623 ? 晩 2 蛇, 王冠 無 R 大竹 一樹 海 2 20 ? 20 ? 早 8 四足歩行, 農作物, 一角, 石兵, あやしい光, 古代兵器, 軟体, さまぁ~ず 無 R ドワーフの斧兵C 亜人 5 877 3634 777 3220 普 2 武器持ち, 二角 無 R ハンターオーク 亜人 5 869 3595 785 3249 普 3 武器持ち, 紫色, 二角 無 R 大魔道師マレファ 亜人 7 936 ? 734 ? 晩 5 アイドル, 一角, 武器持ち, 浮遊, 紫色 無 R ヴィール ダーク 6 586 ? 686 ? 晩 3 箱物, 紫色, サマーゴースト 無 R ジョーミミック 物質 4 540 ? 745 ? 普 2 箱物, 紫色 無 R シザードール 傀儡 4 727 ? 571 ? 普 2 羽, 魔人形 無 R ジエンドオブダバ ダバ 6 791 ? 1289 ? 普 2 複頭, 紫色 無 SR 小桜姫 植物 11 1691 6651 1439 5661 晩 3 アイドル, 武器持ち, サクラリオン 無 SR ジェムスネーク 爬虫 10 1299 5086 1350 5295 晩 2 蛇, ナーガ 無 SR スネークキング 爬虫 10 1378 ? 1271 ? 晩 2 蛇, 王冠 無 SR 大竹 一樹 海 3 30 ? 30 ? 早 8 四足歩行, 農作物, 一角, 石兵, あやしい光, 古代兵器, 軟体, さまぁ~ず 無 SR 大魔道師マレファ 亜人 11 1767 ? 1388 ? 晩 5 アイドル, 一角, 武器持ち, 浮遊, 紫色 無 SR ヴィール ダーク 9 1230 ? 1442 ? 晩 3 箱物, 紫色, サマーゴースト 無 SR ジエンドオブダバ ダバ 8 1371 ? 2236 ? 普 2 複頭, 紫色 無 SR 小桜姫 植物 14 2886 10613 2457 9039 晩 3 アイドル, 武器持ち, サクラリオン 無 SR スネークキング 爬虫 12 2266 ? 2091 ? 晩 2 蛇, 王冠 無 SR 大竹 一樹 海 4 40 415 40 415 早 8 四足歩行, 農作物, 一角, 石兵, あやしい光, 古代兵器, 軟体, さまぁ~ず 無 SR 大魔道師マレファ 亜人 14 2724 ? 2139 ? 晩 5 アイドル, 一角, 武器持ち, 浮遊, 紫色 無 L 大魔道師マレファ 亜人 17 3840 ? 3017 ? 晩 5 アイドル, 一角, 武器持ち, 浮遊, 紫色 コメント 名前 コメント